M-1グランプリ2018② 和牛のコント漫才

 既に実力が浸透している和牛にとって、優勝となると当然ハードルは高くなる。ネタ作り意欲旺盛な水田でも毎年の桧舞台用のネタ作りは難儀だろう。にも拘らず決勝のゾンビネタ、オレオレ詐欺ネタとも新ネタ延いては新境地ネタとして高い到達点を示すものではあったと思う。起承転結を踏まえ尻上がりの感興とオチの歓声をもたらす緻密な構成は、審査員の誰かが言ったように一つの作品の趣き。淀みない間合いと話術で構築し、観る者を引き込む。
 
 だが、その作品性と完成度故の副作用はなかったか?ふとその「作りもの感」が笑いの腰を折ることはなかったか?
 無論、漫才は大木こだまのギャグを借りれば「うそやがな」「そんな訳ないやろ」の作り物。
 掴み、意表を突き、笑いを取るところを計算しながら話を組み立て、掛け合いの話術でその効果の最大限増幅を図る。計算通りにいくこともあれば、滑ることも、思わぬところで笑いが起こることもある。客の前でやる漫才は生きものだからである。
 その意味で和牛の今回のネタは概ね思惑通りの反応を得たのだろう。しかし個人的には、昨年の決勝に掛けたウエディングプランナーネタを上回るとは思えなかった。見る側とシンクロし爆発したこのネタは何回でも見たいと思うが、今回は「これならどうですか。こんなのも出来ますけど」という意識が透け、ナチュラルな笑いを削いだところがあった。繰り返して見るにつれ感興は下がっていくのではと思えたのである。

 3年連続決勝戦ともなればそんな次元に行ってしまうのもやむを得ないことかもしれない。
 しかしこのままでは孤高の道を歩む事にもなりかねないし、それも必ずしも悪いことではないという見方は置いて、仮に和牛の上質な笑いが湧き出る可笑しさより感心の拍手の方へ傾いていくことになるとすれば、自分にとっては残念なことである。
 そういう意味で、彼らには今少し観客を意識してほしい。まだキャリア12年。融通無碍の域には届かずとも、少し抜いた柔軟性が欲しいし、端正な起承転結形態や丁寧な回収形態のみならず、序破急的急加速展開やアドリブがあってもいい。既にダブルボケ・ツッコミも手の内にしている彼らにこそ言える贅沢な個人的要望である。

 一方、和牛を語る時、自分の中で付きまとうのは漫才/コントの境界に関する考察である。
 最近は「しゃべくり漫才」に対する「コント漫才」なる便利な言い方も広がってきた。大まかに言って、あるシチュエ―ションを構え、その登場人物に扮しなりきりながら掛け合いを進めていくのがコント漫才とするならば、私の承知している範囲で言うと、サンドウィッチマンや千鳥やテンダラーそして和牛などはこちらが主体、対して銀シャリ、やすよ・ともこ、華丸・大吉らはしゃべくり漫才が主ということになろうか。
 またこの伝で今回の決勝進出コンビのネタを勝手に分類するならば、正調しゃべくりが最も多くミキ、かまいたち、見取り図、ギャロップの4組、そして正調ではないがしゃべくり寄りがユニバース、リズム漫才とも言うべきなのが霜降り明星とジャルジャル、コント的色物がトム・ブラウン、コント漫才が和牛、スーパーマラドーナはほぼコントといったところだろうか。

 ここまで言っておいて何だが、無論、分類自体に特別大きな意味合いはない。私の分類基準にしたところが、「ラジオで聞いても分かるし笑えるのがしゃべくり」という古臭い価値観に過ぎない。
 口舌一つで人を笑わせる漫才や聴き入らせる落語のような表現芸能が多様な形を持ち、時代と共に変化していくのは当然のことである。そもそも漫才でも見かけとかキャラクターとか演者の柄は大事であるし、身振り手振りや身のこなしなど動きの要素も昔から付いて回っていた。掛け合いの妙だけでなくこうした要素をいかに発展させていくか、或いは構えたシチュエーションにいかに見る者を引きずり込んで笑いを取っていくかは、結局のところ演者の志向性の問題ということになろう。
 だから、もともと高いしゃべくりの技術と実際にしゃべくりネタも持ちながら豊富なシチュエーションをも駆使する和牛やサンドウィッチマンらも、正調のしゃべくりにこだわるコンビも、どちらが正当ということはないのである。

 だが、今回の和牛に話を戻すと「これでいいのか」という思いは拭えない。
 オレオレ詐欺ネタでは、出し抜き合いの末万感のこもった表情で額を寄せ合う母(川西)と息子(水田)の姿が拍手を巻き起こした。ゾンビネタでは、縄をかけられ進めない川西の腰の動きと、直後ゾンビ化した水田に引っ張られて進んで行く二人の動きに歓声と笑いがピークに達し、その後センターマイクから離れた所で「もう、ええわ」と話が終わった。
 いずれも大きな見せ場であり、秀逸な表現力が光った場面だったのだが、それだけにというべきか、一方で感じたのは、このシーンがなければネタが成立しないほどこの表情と動きに依存してしまったなということだった。 彼らの卓抜なしゃべくりの腕がさて置かれた感があった。起承転結的構成でこうした表情や動きが最大の見せ場になってしまうと、コント漫才と言うより限りなくコント寄りになってしまうという気がしたのである。何漫才でもいいのだが、漫才と別物になると漫才好きとしては困るのである。












ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック